« 業態を論じる | トップページ | 耳鳴り »

カゲロウたち

それは儚いものを指すものの代名詞として知っているなまえ。
カゲロウの短命さを憧憬と儚さに置き変えて、人はその名前を口にする。
しかし、このホシの育んできた歴史を見れば、人が定めた暦の1日と100年にどれほどの違いがあるのだろうか。
短命さにおいては、カゲロウの命と人の命に差はない。
主観だけで語る恐れ多さなど、多寡が長くて100年程度のヒトが語ることの傲岸さをこのホシはどう感じているのだろうか。
それはほんの夢のひとときに過ぎない筈。

長寿を夢見ても、その人生を継続するのであれば、カゲロウのような短命さで今を精一杯生き抜くことの方が、美しいと感じるのではないだろうか。

あるmajor-leaguerがいみじくも「叶わない夢はない」と言ったことを思い出す。
叶わない夢はない。
果たしてそうだろうか?
適わぬ夢を見ない だけではないだろうか。遠くのホシを眺めて彼はその上に立ちたいと願ったことはないのだろうか。それは叶うのだろうか。
彼の夢とは、叶えられそうなモノしか見ない と。それは単なる目標に過ぎない。

カゲロウは夢を見るのだろうか。
それとも成虫として一日しかない命では、現実を生きる事に精一杯なのであろうか。
それは人の命が100年とした時と、どこが違うのだろうか。
瞬く間の生命。測る基準の違いだけ。

ウスバカゲロウは、幼虫時代を「蟻地獄」という名前で知られる。そこには生命の神秘を集めたような成長期を長年、土の中で過ごすことによって成虫と呼ばれる・・・つまり羽を持ち生殖が出来る時間・・・一日の為の準備と思われる。
成虫が大人 という考え方は人間の身勝手な思いのように感じる。
彼らの命の中で、寺の裏庭で「蟻地獄」として過ごす時が彼らの命の一番輝く時と考えられないだろうか。
人が生殖可能な期間が長いのは、子孫がなかなか作りにくいための解決策としての結果であって、ウスバカゲロウにとって生殖などは老後の一環の作業みたいなもの 当然、その羽を持った一日で解決できる生命として最後の役目であれば、彼らを大人 と呼ぶ期間は「蟻地獄」の時であってもなんら不思議はない。
生殖など人間の遺言のようなもので、生命が消える時、当然ある儀式 と考えると良いのである。

時間の長さ、成長過程の勝手な解釈 これは人間の基準で表現している。
人間同士の会話であればそれでよいのであろうが、DNAの数は生命の数だけある筈。

カゲロウから見れば、人間の命や宇宙の命も「永劫」と同義語なのかも知れない。そして我々は、そのどちらも命の終焉があることを知っていて、現実を生きている。

《つづく》

|

« 業態を論じる | トップページ | 耳鳴り »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/190533/29907532

この記事へのトラックバック一覧です: カゲロウたち:

« 業態を論じる | トップページ | 耳鳴り »