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2009年4月

迷子

さいきんとんとご無沙汰の大型電器店。
かつてあれほど好きだった電器量販店。
久しぶりに必要に駆られ、閉店間際に入ったところ、とんでもない悲劇があった。

確かにいろいろな事情があった。

先ず、風邪を引いていた。久しぶりに熱を伴う風邪。家にも会社にもいない私は自力で食事を摂らなければならない。また薬で症状を軽減している身としては、暖かいご飯で体力を付け復活を遂げねばならず、食欲のしの字すらなくても と考え外食に出向く。

これが食事に集中すれば良いものを生来の貧乏性が災いして仕事の書類を読みながら・・。

何かを読むときに老眼鏡が必須になって早三年。
暖かいうどんに眼鏡が曇り眼鏡を拭こうとしてフレームを持ち上げ手前に引くと左のレンズ部分がパリン。二つになった眼鏡がうどんのなかに落ちた。

ご臨終になった眼鏡をうどんから取り出して、うどんは完食しましたよ、
当然。
問題は、眼鏡がないと字を読めないそのあと。

とりあえずなので、百均に向かえば営業時間終了。明日の仕事を心配して老眼鏡を確保しなければ というところで(ぼやけた)目に入ったのが家電量販店で   と文頭に戻る訳。

幸いにしてその大型電器店には、メガネコーナーがあり出来合いの老眼鏡を百均の35倍の金額でゲット。
なんでこんなにダサいデザインしかないのだろう?という疑問は措いといてレジで精算するころには、閉店の音楽が客もまばらな店内に流れている。

当然、焦る私に追い討ちをかけるように各所に立つ販売員たちの、ありがとうございました の掛け声。
ますます焦りを強くしている私は商品を受け取ると四階のメガネコーナーからダッシュでエスカレーターに向かった。

ところ・・・
出口がない。

上へ下へのエスカレーター表示やエレベーターの場所表示はあるのに、出口の表示がない。
ない。

ますます焦った私は、フロアをウロウロ。本当の迷子の心境はこうなのだろうな・・・という思いは、無事に店内を出てから思った感想。

実は私が出口を探したフロア、2階だったのです。
そりゃ、出口は無い筈。あったら怖い。

人間パニックに陥ると周りがみんな敵に見えたりする のですよ。はい。
幸いにステキな店員さんがいて、出口はもう一階下になりますよ と教えて下さいました。

てか、最初から出口を探していると分かっていただろう! というのも店外に出てから思った次第。

迷子は怖いです。
気をつけましょう・・・

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争点

先日の報道で、痴漢冤罪事件の判決が最高裁で無罪を言い渡された という報道の時に事件の詳細を読んで考えたことが数点。

裁判官の判断基準が、何かしら偏っているように思えるのですが、そんな疑問は皆さん抱きませんか?

痴漢事件の場合、事件の卑劣さは置くとして、被害者側の申し出によって取り押さえられた容疑者は、自白をしないと拘留期間いっぱい拘置所で過ごす訳ですね。そこには非現実的な取り調べが毎日のように続く時間がある訳です。逮捕されてから「申し訳ありません自分がやりました」と話をすれば、警察側も直ぐに釈放を決める という事実と裏腹に。

ところが「やっていない」とでも言おうならば、やったと言うまで、または拘留期限まで身柄の拘束が平然と行われ、裁判では、検察官裁判官が寄ってたかって「反省がない」ことを理由に、執行猶予の認められない拘束刑を請求、判決として出す。

これって、怖い話ですよね。
やってないから反省がないのは当たり前で、少なくとも裁判所で反省がないことを理由に刑罰を決めるのはオカシイ・・・と思うのです。

争点はそこではないだろう。やったと認めた人間が反省しているから情状を酌量するのなら理屈は通りますが、やってないと主張している人間が自己主張している事を反省がないって・・・。  

そこには犯人ありき の裁判が進んでいるように感じられるのです。

この国の刑事裁判は、有罪率98%。
検察はこの数字を下回ると無能 の誹りを免れないから、有罪に持って行くためにあれやこれやの・・・以下省略。

今回、和歌山の事件での最高裁判決を聞いて感じたのもこの部分でした。
主文の中に「反省がない」と。
やってなければ反省はないのが当たり前。状況がどんなにその被告の犯行を示しているにしても、主張が無罪であるならば反省したら逆におかしいだろうというロジックは通用しないのです。
メディアは常に被害者サイドに立っている振りですから、この点を突っ込んだ論調は避けるのですね。

裁判において犯罪の有無、被告の量刑から、是非「反省がない」事での刑の確定 という部分は外して欲しい と思うのですが。。。
これは経済事犯のみにしてはどうか。
そう、経済事犯のやったもん勝ちのような現状で、反省していないことで量刑加算すれば良いのでしょう。やったら閉門蟄居財産没収 くらいでないと極刑に処す という方法が抑止力として働くのではにだろうか?

行き過ぎかしら。

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Cherry Blossom

桜折るバカ柿折らぬバカ
群生し木々をピンクに染めることによって生き残っていった桜の戦略。
その美しい一枝を、持ち帰ろうとする不届きな輩を戒める金言。
折ったら咲かないぞ! という脅迫に近い語りを実践し、自分自身を守ろうとする自衛戦略。

戦略があるとしたら だが。

いにしえの遺伝子によって、彼らはその目的を達した。
散り際が美しい、この国のもののふ達がかつて美徳としてきた、そして命の散り際、死に方 を桜に例えた心意気をほんの10日ほどで具現化した花の咲き様、散り様。

しかし忘れてはいけない、彼らは来年も同様に花を咲かせるのである。
人はそれを知っているから、散った後 普通の木に戻る彼らを大切にする。
武士道とは死ぬことにあり 彼の剣豪もその大きな矛盾点に気付かずこの木を礼讃するほどの戦略。

時間のスパンを超えた戦略。

学ぶものが多いのではないだろうか。
人は散ってしまえば、僅かな記憶と数平方メートルの墓としてかその存在を残せない。それもまた戦略と言うべきなのだろうか。

柿の立場はどうなるのか?
柿は折ることで切るという行為を差し止めている訳ですが、実はこのことわざ、サクラとカキの間にウメが入ることを知らない方が多い。
件の文字の間には、梅切らぬバカ という文言が本来入る。つまりウメは切る(剪定)・・・桜や柿はハサミを入れない という話になるのである。

柿の立場としては、枝を折って構わないがハサミを入れて切るのはダメだよ を主張しているのであるが、標題しか有名にならず、柿を折る=切る と勘違いして、切ったところから芽が出ない という現実があったりするのである。

この辺を端折って世間に伝える事で、自分の立場を優位に持って行った桜の戦略であろうか。
木の世界でも、人間を操る戦略などがあるような気がする。

自宅のサクランボは今年も撓わに実っている。毎日鳥が来て、まだ熟してもいないサクランボを摘んでは持ち帰っているそうだ。
熟した実を食べに来る鳥は、その場で食し、種をその辺にばらまくが、熟していない種の場合、サクランボの実に付いている小さな枝の部分を咥えて何処かに飛んでいくらしい・・・私は見る機会はないが・・・巣に持ち帰ってそこで熟すのを待つのだろうか?
 
そんな行動をとらせるのも桜の戦略のように思えてくる。
人類が死滅しても、桜はきっと生き残る。それこそが戦略という名にふさわしい生き様のように思う。

他社が死滅しても我が社は・・・。そう戦略である。

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今こそこのスローガン

もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ

1970年代に電通PRセンターが提唱していた「戦略十訓」というものらしい。
ネタ元はヴァンス・パッカード著『浪費をつくり出す人々』(1960年)といわれている(Wikipediaより)。
何かで最近このような文面に当たり、これこそ今の景気閉塞感を打破していく標語ではないか! と思った。
これは最近勧められている「エコ」と相反する かといえば、あながちそうでもない。
なにしろエコ事態が、それなりの流行のようなものであるだろうから。

もっと使わせろ ← エコに関する商品を
捨てさせろ ← 
さぁ、リサイクルだ
無駄使いさせろ ← 
今まで使ったものをエコ製品に買い換え
季節を忘れさせろ ← 
エコにシーズンなどあるはず無い
贈り物をさせろ ← 
パッケージをエコ風にして
組み合わせで買わせろ ← 
当然エコ製品
きっかけを投じろ ← 
まさに今、エコの時
流行遅れにさせろ ← 
エコ製品以外は流行遅れ
気安く買わせろ ← 
税金だって安くなるのだから
混乱をつくり出せ ← 
まさにエコ替え

と屁理屈ばかり並べるが、その先にある安定 を確認できなければ人間は消費になかなか積極的ではない。
ある意味、ゴミなど殆ど使い切って出なかった昭和初期と人口はそう変わらない現在、エコという名の先祖返り が良いのではないか。消費の重点をITに頼るばかりでなく、アナログチック部分で歴史は繰り返す を浸透させることで、またあのオイルショックな時期が来ると確信させれば、消費は動く・・・筈。

先ずは、全員きものを着て からどうかしら?

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野球選手の成長

最近話題の野球。
WBCのダイジェスト版を見ていて選手たちについての感想を。

彼らは、大人になっていくと感じる。
高校時代にやんちゃをした人間がプロとして揉まれる間に身に付けた自分を押さえる という自制。

高校生の間は親に監督に と押さえつけられていただろう その自我も、卒業してホンの数年、本来の人としての性格を覗かせる。それはお金の問題だったり、喫煙、女性、暴力だったりするけれど、数年を経て自制心が出てくるのだと思う。少なくともテレビの前では、そういったやんちゃな部分は出ない。

確かに、小さな頃からフィジカルに恵まれ、運動神経は抜群 集中力にも 人一倍優れ ということなれば、増長するなという方が無理である。ましてその延長にプロとしての活躍が約束されれば何をいわんや であろう。

それが自分の特技で自分と同等、それ以上 の中に入ろう、また入ってすぐ たらん時に、自分をどのように自制、コントロール、努力が出来るかでその後の成長が決まるような気がする。

入り立ての時、自分が負ける 各地では敵なしだった自分が・・。
当たり前である

先輩たちは、その特技だけに少なくとも一年以上の年月をかけて鍛えている訳なのだから。

それはテレビを通して感じる我々の目に入ることである。

そして、それは決して野球の世界だけではないと思う。

そこで新入社員に言いたい 今は自制して自分を鍛えなさいと

じーさまの言である、まさに!

しかし、新入生のみんなには歳をとってから後悔でしても始まらない ということを想像してもらいたい。

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颯爽と歩く

最近物忘れが多くなったな と感じるワンシーンで、皆さんはこんなこと経験されたことがおありでしょうか?

ケース1

それが部屋を移動して何をしにきたのだろう? と忘れる(この程度は経験者もおられるはず)のは、しょっちゅうなのだが、思い出さないまま元の部屋に戻って、あれ私はこの部屋に何をしに来たのだろう? とそこでもまた悩む
まるで、シロヤギさんとクロヤギさんの手紙のやり取りみたいな話(どちらも、さっきのお手紙ご用事なあに? という手紙をやり取りしているというパラドックス)
これが最近多い

ケース2

一日イスに座ってトイレに2回行っただけ。
その日の万歩計は、な~んと39歩。
その後、歩いてみると颯爽・・どころかまともに歩けないのです。
本人はカッコよく歩こうとすれど、意識と身体の反応が違って小走りになってしまう。
歩き方を忘れて・・

地球の歩き方 が要りますよ。
それから万歩計は医者に返しました。

ケース3

薬をのむに当たり、各クスリを間違えないように一回分の容量ずつテーブルの上に固めておき、寝る前に飲もうとしたら、クスリの山が二つある!
さっき取り分けしたのを忘れて、もうひと山作った ・・のであれば問題はないのだけれど、ひょっとすると三つの山を作ってしまい、ひと山は既に飲んだのではないか?
こういう疑心がでるとまさに目の前真っ暗 暗鬼。

そのうち社員に報酬を昨日払ったろう と言い出すかも。

この記事、備忘録になってきてますよね (^_^);;
そう、念のため。後から読み返して
こんな事を記録に残している と自分に言い聞かせるだけですから! ハイ

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